2023年夏の酷暑。お盆を過ぎても一向に出口が見えない状態。9月半ばだというのにまだ35度近くの日々が続く。
早朝からうだるような暑さ。昼間に照り付ける太陽。まさに命の危険を感じるような日差し。こんな表現、いつから言われるようになったのだろう。慣れって怖い。
今日も暑いよね、、、この異常な気候が当たり前のようになってくる。だんだんと問題意識が消え失せていくのは良くないことだ。
世界各地で起こる森林火災。季節外れの大型台風の到来。線状降水帯と呼ばれる集中豪雨。海面温度が上がって、今まで獲れていた魚がいなくなったという話。
これまで経験がなかったような事態が毎日のように起こっている。いつ何時、自分事になるかわからないリスクを抱えている。
植物の葉が二酸化炭素と日光と水からエネルギーを作り出す光合成は、温度が46.7度前後に達するとうまくいかなくなり始める。葉の温度は気温よりも大幅に高くなることがある。
(米国、オーストラリア、ブラジルなどの研究チーム)
こんな研究もされているようだ。森が身近になってその意味がわかるようになった。
木があるだけでこんなにも違う
この夏、感じたことがある。それは木陰の尊さ。太陽がそのまま照り付ける場所と木陰とを比べるととんでもないほど身体に感じる気温が違う。
僕たちの森には多数のコナラが生息している。枝と葉が太陽の直射を受け止めてくれるおかげで、その下にいると、ほっとひと息をつくことができる。
森の中をそよぐ風は涼しい。あたりは全て土の地面。木々が発する水分と土が吸収してくれるからだろうか。このあたりはまだまだ勉強不足だが、木と土がサポートしてくれているのは感覚的に明らかだ。
森の中は全部刈り取るのではなく、下草を残している。(もちろん手がまわっていないというのも事実だが・・・笑)そうすることでどんな変化があるかを見ていきたいからだ。
土と下草と木とのバランスで森が出来上がっている。ここも勉強不足だが、感覚的にはわかるようになった。
樹木は光合成によってCO2を吸収し、燃やされない限り、たとえば建物や家具といった形で使用される間もずっと炭素を固定し続けることができると何かの記事で読んだことがある。
森の中にいるなんて特別な環境だから・・・と思うかもしれない。そんなことはない。街中でもその差を感じられる場所はいくらでもある。
つい先日、都内にある近所の公園を歩いてみた。その公園には多数の木々がある。
それまで歩いていた道路と公園の中では明らかに体感する温度が違う。暑さの違いはもちろんだが、木々は何だか包み込んでくれる安心感を与えてくれる。
人が歩くところはアスファルトだが、両サイドの木があるところは土のままになっている。木陰になったところは明らかに涼しい。この組み合わせがあるから得られる環境なのだろう。
難しいことを言う前に街中に木と土とアスファルトをバランスよく整える開発はできないものかといつも思う。
大手企業の中には10年近く前から大都会に森をつくるといった取り組みをしているところもあるみたい。素晴らしいことだ。こういう取り組みをもっともっと広げていけたらいいのに。
都市計画などというと大げさになってなかなか事は進まない。あれこれ検討するよりできることをできるだけ早くやっていくことが先決。でないと近い将来手遅れになる。
都会のアスファルトジャングルで吹く風は生あったかい。というかこの夏は熱風だった。定期的に森と町を行き来する生活が両者の違いを歴然と教えてくれる。
特に今年の酷暑。余計に痛感した。土と木の存在は今この瞬間とても大切になっている。
街中の道路には街路樹が植えられている。街路樹の目的は、夏の日差しを遮ったり、車の騒音や排気ガスをやわらげたり、災害時の安全を図ることとある。
そんな中、枝の根元から切り刻まれた街路樹を見るたび情けない気持ちになる。あんな姿にするのなら最初から植えなければいいのにと思う。
木は光合成をするとき、大気中の二酸化炭素を吸い込んで、きれいな酸素を吐き出す。脱炭素社会とか大げさな言葉だけが独り歩きしている。木を大切にしていけばすぐにでもできるのに。なぜこんなシンプルなことができていないのだろう。
木、森が与えてくれる恩恵
木材資源
日本は森林7割の国土とよく言われる。なのになぜか外国産の材の輸入に頼ってきた経緯がある。その方が安いとかいろいろと歴史はあったのだろう。
一方で日本の中に資源があるのに、何でわざわざ海を渡って遠くから取り寄せないといけなかったのか理解できないのが正直なところ。
今、必要なことは国産の木材利用をどんどん促すこと。一生懸命取り組みをしている人がいるのに全体としての動きになっていない。何が理由でこうなるのか全く理解できない。
ウッドショックなんて言っている暇があったら、もっと国産材に目を向ければ解決すること。担い手がいないとか林業の実態がとか、諸問題はあるかもしれない。
でも突き詰めれば日本国内にある宝物をどう活用していくかということにある。こういう問題があるまでは誰もが考える。大事なのは「で、どうする」の次ステップにある。
ネット記事をリサーチすると林野庁が「ウッドチェンジ」なる取り組みをしているようだ。農林水産省が総務省、文部科学省、経済産業省、国土交通省、環境省と連携をとっていると記されている。
身の回りのものを木に変える、木を暮らしに取り入れる、建築物を木造化・木質化するなど、木の利用を通じて持続可能な社会へチェンジする活動
林野庁「10月は「木材利用促進月間」です」
こんな素晴らしい活動、もっと周知してほしい。そしてスローガンだけでなく地に足ついた活動にしてほしいと思う。
シンプルに考えていけば自ずと答えは見つかる。あとは実践するのみ。こんなことばかり言っていると評論家なので、まずは自分のフィールドで実験していく。
森プラス「○○○」の足し算。可能性を広げる活動の原点はここにある。
水源涵養
水源涵養という用語がある。森林は緑のダムと呼ばれているそうだ。
森林に降った雨や雪などの降水は、すぐに森林から流れ出ることなく、地中(土壌)に浸透し、地下水としてゆっくり流れ出ます。このため洪水や渇水が緩和されたり、澄んだ美しい水を私たちに供給してくれます。この働きを「水源涵養」といいます。
「豊かな森林は、雨水をたくわえて、きれいにしながら少しずつ時間をかけて流すので、川の水は澄んでいて、渇水もしにくくなるんだ。それと森林の落葉や下草が雨滴による表土の流出を防いでいて、木の根が土を押さえて、土の流出や山崩れを防いでいるんだよ」
森林・林業学習館
水はいうまでもなく人が生きていくために欠かすことができないもの。木がなくなると水を生み出す機能がなくなる。線状降水帯といった今まできいたことがない気象用語だけが独り歩きする。
洪水防止
森には洪水を緩和する機能もある。森林の土壌が雨水を蓄えることで、河川に流れ込む水量が調整される。大雨で洪水にならない、もしくは洪水が起こっても次第に緩和されていく。
森林土壌に浸透した雨は、様々な経路をたどって川にゆっくりと流れ出ていくことから、降雨時における川の流量のピーク(降雨に伴って川の水かさが増していったときの最大値)を低下させたり、ピークの発生を遅らせるなどの働きがあります。
林野庁「水を育む森林のはなし」
これらは洪水の緩和機能と呼ばれ、特に、中小規模の洪水の場合に発揮されると考えられています。
各地で起こる土砂災害。もちろん地球規模の気候変動が大きな要因だろう。むやみやたらと森林をなくしていくから、あちこちで災害が起きている。人間の私利私欲だけで行う余計な造成は早期にやめないといけない。
一方で人工林が植えられてそのままに放置になっている現状も起因しているようだ。森の成熟と土砂災害には因果関係があるという研究結果も発表されている。
九州大学大学院農学研究院「森林の成熟によって土砂災害は変化する」
- 日本では森林の成熟によって豪雨による土砂災害が変化しています。
- 林齢の異なる人工林で発生した土砂災害を対象として,土砂災害を引き起こした降雨および発生流木量を比較しました。これにより,森林の成熟が土砂災害に及ぼす正と負の影響を明らかにしました。
日本は山の傾斜が強いため、間伐作業の難易度が高い。伐採した木を運び出す道が必要になる。林業の担い手が減っていることと相まって、間伐が進まないと何かの記事で読んだことがある。山の手入れができなくなって行き詰っているのが現状なのだ。
森は人間が生きていく歴史の中で受け継がれてきたもの。そんな財産を踏みにじるようなことはすぐにでもやめたい。そして保全できる体制も早急につくらないといけない。人間は森に生かされているのだから。
ここではテーマだけを列記した。木や森が与えてくれてきた歴史や恩恵についてはまだまだ知見が浅い。勉強も必要だ。学びとして必要な知識を得つつ、得たものを実際にフィールドに落とし込んでいきたい。そうすることで本当に大切なことが見えてくると思っている。
※自分としての戒めも含め、新たに得た知見は本記事に加筆修正していく予定にしている。
取り戻したい土の道
僕が子供だった50年近く前。路地には土が残っていた。夏はもちろん暑かった。でもこんな異常な暑さはなかったはずだ。
話は横道にそれるが、森の小さな家の屋根はアスファルトシングルを使った。施工したのはまだ5月。なのに昼間は太陽に照らされお尻をつけると火傷するくらいの高温になった。現に少し溶け出していた。アスファルトがこうなるというのを目の当たりにした出来事だった。
木はもちろん土の存在も大きい。何でもかんでもアスファルトにすればいいわけではない。これからの時代の都市計画づくりで土と木のバランスを考えることはとても重要な課題。優先順位を上げて組み立ててほしいと願う。
森林設置ソーラーパネルは諸悪の根源の象徴
木を根こそぎ削り取り、山の面に張り付くように設置されたソーラーパネル。その景色を見るたびに嘆かわしい気持ちになる。心ない業者がお金のためだけにやる行為はもっての他だ。
僕のフィールドがある地区でも建設反対の案件が何年も続いている。ここを見つけるまで何度か通ったが、道すがらにあった立て看板が気になった。
最近になって、近隣住民の同意なく設置することを禁じる条例がようやくできたとのこと。遅すぎる。なぜ放任しているのか?もっと早く動かないと大変なことになるのは目に見えている。森林伐採の太陽光設置は全て禁止すべきだと思う。
ソーラーを推奨するなら「建物の屋根」に設置することに尽きる。誰にも分け隔てなく与えられる太陽の光。そしてこれだけの熱量エネルギーを未来へ活かしていくための得策に違いない。
森林は地球の肺
こんなふうにいう人もいる。ある意味適切な表現だと思う。人間は肺があるから呼吸ができる。肺をむしばむと呼吸ができなくなる。その先は死が待っている。
今起こっていることは地球の命を縮めていることに等しい。であれば、本当は国をあげて最優先事項として取り上げていく話のはず。でも実際は目の前の案件ばかり、付け焼刃的に動いている。
世の中が変わるのを待っていたら間違いなく手遅れになる。今は自分としてできることをやり、一人でも多くの人に森を身近な存在にし、森の大切さを知ってもらうことと思っている。
今、自分ができること、my forest my home
ニュース記事には、カーボンニュートラル、ネイチャーポジティブ、サーキュラーエコノミーといったカタカナ言葉ばかりが目につく。新しいワードもどんどん生まれている。
もちろんその一つひとつには意味があるのだろうし、一生懸命取り組んでいる人たちもいることだろう。一緒になってやれることはしたい。
ただこうして次から次に出てくる言葉に踊らせることなく、森の大切さ、森と人を共生をシンプルに考えていきたいと思う。
これらは地球規模の話。個人レベルでやっても根本の対策にはならない。国家レベルで動くことが必要だ。
だからといって国がやってくれないから・・・と批判評論していても何も現状は変わらない。変わらないどころか悪化の一途をたどるばかり。
自分が今できることをやるしかないと思っている。今できることは自分のフィールドを自分として考えられる健全な状態にすること。
森を健全にするとどんな環境になるのか。森の可能性を引き出したらどうなるのか。実験検証してみようと思っている。
自分の森は自分の手で循環させる。自分の森、自分の家づくり。そうmy forest my home。
そしてその中から得られたことを少しずつ発信していきたい。誰かが言っていたからとかそんなことは不要。あくまで自分自身で体験して実証できたことをしっかりと伝えていく。
森プラスでは、そんな活動をしていきたい。そして少しずつでも美しい森が増えていくことを願って。未来につながる道筋として。